ここは、座長「田Ko」(以後:私)のブログのようなページです。
過去作や、現在開発中の作品の四方山話を書きます。時々、お絵描きなんかも載せたりします。
また、私はここに、日記のような感覚で、その週の徒然たる話を書いていきます(こっちがメインかも)。
その足跡を辿れば、開発中の新作の姿が少しは見えてくるかと思います。
稀に、私の作品に共通する、私の世界観なども書いていく予定ですので、
意外と重要なページになあるかもしれませんね。
まぁ気楽に、暇つぶし程度に、読んでいってくださいな。
...タイトル名称の読み方は「にちにち これ きにち」です。あんまり語感は良くないねぇ。
タイトル「非日常と非非日常の薄膜」
<記述日:2025年06月01日>
本ページをご覧の皆さま、こんにちは。座長の田Koです。
先週は予定通り忙しく、ページ更新している暇がございませんでした。
気が付くともう6月でございます。流石に初夏と言わざるを得ませんね。梅雨の足音が聞こえます。
初夏の姿が顕れだしたために、今まであった日中の爽快感は薄れ始め、
じめりじめりと高密度の水気を感じる日が増えました。汗ばむ季節とはよく言ったものです。
しかし、夜は依然として清々しく澄んでおります。というわけで深夜徘徊の頻度も増えました。
今回もまた深夜徘徊のお話をします。ですがいつもとは趣向を変えて、少々深い思考からそれを分析してみます。
この世の美しさを夜の時間から探究する。そんな目的で外に出ている以上、色々思うこともあるのです。ではでは。
まずは何となく良い雰囲気のベンチからお話をしていきます。
これは私の学寮のある市の海沿いにある観光スポットのベンチなのですが、
太平洋を一望する低所の展望台です。日中はさぞや美しいのでしょう。夜も心地よさでは負けておりませんが。
しかし太平洋、やはり「暗い海」です。波打ち際に押し寄せる波の音、夜なので音意外はまともに知覚されません。
その音に何やら不思議な恐ろしさを感じるのは、私だけではないと思います。夜の波は、それに乗って「何か」を運ぶ。
朽ち果てた流木から、目出度くもおそるべき戎の身体、或いはその霊魂か。
海について、もっと詳しく知る必要を感じました。これは余りに多くを包括しすぎているのです。生も死も、畏るべき神秘も。
さてこちらはもっと直接的な神秘です。「蕪島神社」という神社で、弁天様などを祀っております。
先ほどのベンチはこの神社に付随するもので、この神社は少し半島のようになった場所の丘に建っており、
境内自体の範囲はそう広くは在りませんが、その佇まいは半島全域を神域と成すような厳かさを備えています。
日中は観光客や地元人で溢れるものですが、夜10時にはもはや帰郷した海猫たちの声しか響きません。
しかし、人が普段見ない場所や時間にこそ、本当に見るべき「場所の姿」が顕れるものではないでしょうか。
美しさと厳かさを語る以外の感想が書けないくらいには、えもいえぬ雰囲気を醸しています。それは恐らく場の「神秘」です。
神秘について語る言葉は、生憎私は見つけられません。ただそこに「いらっしゃる」としか。
信号機に感動するというのは、ある程度の感性が必要でしょう。
溢れかえっている物が美しくあるためには「場」の干渉を有効活用しないといけません。
この信号機は、海沿いの町の夜、車通りの尽きた道の辻(交差点)にあった物です。
これを見た時私は撮影せざるを得なかったのを覚えています。信号機、もっと言うとこれは「指示器」であり、
人が人を制約するために創られた。何とも絶妙な立場にある機械なのです。
車通りの無い夜、なおも活動を続ける「彼等」は、もはや役割を超越した意思を持つような雰囲気でした。
余りにも海沿いに居座っている気もしますが、海沿いの美しさとはまずこれですよね。
海上にはその水蒸気密度の関係上、写真に映すと往々にして「もや」がかかります。
そして、ある程度の都市部の場合、此岸と彼岸の境目には必ずと言っていい程に光の道が在ります。
太古と現代、互いの象徴は交互に顕れるのです。海沿いに出向くとそいう言った空間的な「継ぎ接ぎ」を感じざるを得ません。
しかし、時間的には専らそれらは連続している。空間と時間との間には解釈の違いが存在する。
相対論ではそれらは同一だというのがまた面白いものです。この世にはやはり、統一的な理論は存在するのでしょう。
この世の全てが干渉の副産物だとしたら、この世も我々も、存在として希薄なものです。
さてこれが最後の写真としましょう。この日は良い感じにミストがかかって美しかったです。
でっかい橋の上から町を本当の意味で一望して撮ったここ二週間のベストショットですね。
これを撮った時私が思ったのは、日常と非日常の何と曖昧な事か。ということです。
私は普段、この俯瞰のどこかで暮らしているのです。それが少しばかり上空から見るだけで、
いつもの自分の生活圏、つまり日常は非日常の一部になってしまいます。
本来、日常というものは非日常に比べて余りにも小さい物なんだと思います。
世界が自分の視界よりも広がっている以上、日常というものはそれよりも何億倍も大きな非日常に囲まれているのです。
非日常はすぐに作ることができる。日常の境内を少し外に出るだけでそれはすぐに非日常になり、
もっと言うと、これまで日常だったものも、非日常に変わっていく。
人が楽しむことを忘れなければ、人は永遠に楽しんでいられるのだと思います。
この世は非日常を中心に運行する。ならば、我々の過ごす日常はその反対、「非非日常」として考えるのが妥当ではないでしょうか。
今回はこんな感じですね。日常は簡単に逸脱できるんです。
日々に疲れたなら、日々の定義から覆していくことをお勧めします。
カーペットの上で死ぬなんて、なんか寂しく無いですか?
定住は野ざらしに同じ。田Ko
<次回更新予定日:2025年06月01日(Sun)>