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このページについて

 ここは、座長「田Ko」(以後:私)のブログのようなページです。
過去作や、現在開発中の作品の四方山話を書きます。時々、お絵描きなんかも載せたりします。
また、私はここに、日記のような感覚で、その週の徒然たる話を書いていきます(こっちがメインかも)。
その足跡を辿れば、開発中の新作の姿が少しは見えてくるかと思います。

稀に、私の作品に共通する、私の世界観なども書いていく予定ですので、
意外と重要なページになあるかもしれませんね。

まぁ気楽に、暇つぶし程度に、読んでいってくださいな。
...タイトル名称の読み方は「にちにち これ きにち」です。あんまり語感は良くないねぇ。

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タイトル「世界は瞬きをすると滅ぶらしい」
<記述日:2025年04月12日>

 本ページをご覧の皆さま、こんにちは。座長の田Koです。
最近はやるべきことと、やりたいことが増えまくっていて幸せです。春ってかんじー。
今回のお話は個人的に結構面白いと思います。長文になるかも?
ですが、恐らく楽しんで読んでいただけると思います。では早速。
 さて、私は現在学生(大学)で、ゼミ、ではないですが、特定の教授の下で色々なことをする「研究室」に配属されています。
何を研究しているの?というと、人それぞれですが、私は「VR」について研究、開発をしています。
ただでMetaQuest3に触って遊べるオイシイ仕事。というのもありますが、その楽しみ以上に興味深いことがあります。
ズバリ、「VRという最新のモノが、この世界の原初の命題につながること」です。

 どういうこっちゃねん。と思った方は、ここで一度「唯心論」で検索してみてください。
唯心論という立場は、簡単に言うと「この世界があるのは他の存在がそれを認識するからだー」ということ。
つまり、「見て、聞いて、触って、味わって、嗅いで、感じている世界がその人の全て」ということ。
それ以外の存在は、その認識者にとって存在しない。と割り切る主張です。

 この主張をわかりやすくするには対義語も知るべきなので紹介すると、そちらは「唯物論」と言います。
「俺たちが今スマホの画面を見れている理由は、そこにまずスマホの画面があるからだ。」というように、物体を優先する考えです。
正直、一般的にはこっち(唯物)の立場の方が理解しやすいと思います。ですが私は唯論派です。
考えれば考えるほど頭がパンクします。ですが恐らく、柔軟な発想ができるのは「唯心論」だと思います。
最終的には各々のお好みですけどね。

朧車

 さて皆さん。上に載せたのは、江戸時代の絵師鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」にある妖怪「朧車」です。
何やら文章が書いてあるので読んでみると、
「むかし加茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。出てみれば異形のものなり。車争の遺恨にや。」とあります。 「車争」については個別で調べてもらうとして、着目してほしいのは「おぼろ夜に」のところ。
何を言いたいかというと、この妖怪は「夜」に生まれたということです。もっというと、「闇」の産物。
現代、人間の住むところに闇というものは消えつつあります。しかしかつては、人間の周りすらも夜は闇なのです。
人間が当然抱く恐怖心は妖怪たちの種であり、淡い月光の下で見た「何者か」を人間が「妖怪」と解釈するのは何ら不思議では無いでしょう。

 「何者か」と「妖怪」、この2つのどちらを肯定するか、というのが、唯物と唯心、2つの理論の境界です。
見たモノをそのまま受け入れれば、たとえ遠目には異形の者であれ、やがてそれが1本の柳の木であることを確かめられます。これが、唯物論。
「化け物だぁ」と逃げ帰った者の中には、「朧車」は生き続け、やがて後世に口碑として残ります。これが唯心です。
現実は解釈の数だけ多様に存在し、そのうちのどれが正しいということはない。私は常にこういうマインドでいますので、日常は基本楽しいです。

VR

 さて、見えているものがその人の現実である。という、唯心論的な立場で上の写真を見てください。
こちらはVRゴーグルの視界のスクリーンショットになります。
手前には黒っぽいウィンドウが表示され、そのほかは外のままの景色です。
ゴーグルをしている私の視界に、このようにウィンドウが追加されましたね。このように、ゴーグルをつける前と後で、
「前」の世界に対して「後」では何かを追加する。としたものを、「AR(拡張現実)」と言います。
人間が感受するものを、総称すると「現象」と言います。それを作り出しているものは「本質」といい、基本、我々には分かりません。
VRゴーグルによって、私の視界は完全に置き換わり、新たに「ウィンドウ」という現象が追加され
同時に、ウィンドウの後ろの世界は、私の現実からほとんど消去されてしまいました。
見えていない世界から何らかの匂いや、音がすることで、辛うじて、その世界の存在が確定します。
VRゴーグルは、物体的な存在感が少なからず希薄であることを教えてくれるのです。

般若心経

 このように、我々の世界の存在論というのは、人類に対する、根源的問題です。
それは、今から約2000年も前に説かれた「般若心経」にも表れます。
上の画像の、10行目。
「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」これは前後で、感覚器官と感覚に対応しています。
般若心経的には、目が無いのなら色がなく、耳が無いのなら声がない。鼻がなければ...というように、
現実を構成するファクターが人間の五感(仏教的には六感)であることを示唆しているわけです。
もっとも、般若心経は全体を通して、そういった現実の希薄性を極論し、結局何もない(空)よ。といっています。

ゴーグル

 私は以前から、この世界の構造にはとても興味がありました。
その興味は偶然にも、VRゴーグルによって1つの重要な手がかりを得たと言えます。
我々が感受する世界を支配しているのは「科学」です。故に我々は、科学ありきの世界しか感受できません。
しかし、この世界のどこか、いや、今目に映っている世界には、また別の支配的概念が漂っているのではないか。
それが「エネルギー」なのか、「マナ」なのか、はたまた「気」なのか...
隣の席の旧友が、実は世界のマナを操る魔術師でも、私は驚きません。
「ある」と主張されたものは、全てあるはずなのです。
そうやって、見えない世界を認めながら生きたほうが、創作の役に立ちますしね。唯心論最高です。


 今回はこんな感じです。
最後にひとつ、「VRは錯覚効果がすごい」とよく言われます。
しかし私目線では、ゴーグルをつけた人にとっては、ゴーグルを通した世界が現実になると思うので、
果たして「錯覚」というのは適切なのでしょうか。我々はゴーグルなしの世界を常識化しすぎているからそう言うのでしょう。
もしかしたら、今見ている景色も「錯覚していないという錯覚」の中に成り立っているのかもしれません。

本質というプロトコルがあり、現象は、本質のインタフェース(提供機能)です。そして、世界は現象の集合体です。
話が通じない人。と切り捨てず、見えている世界(本質)が違う人。と解釈することを心がけたいですね。

私が飛行機に乗っている間、山手線は走っていない。田Ko
<次回更新予定日:2025年04月19日>