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このページについて

 ここは、座長「田Ko」(以後:私)のブログのようなページです。
過去作や、現在開発中の作品の四方山話を書きます。時々、お絵描きなんかも載せたりします。
また、私はここに、日記のような感覚で、その週の徒然たる話を書いていきます(こっちがメインかも)。
その足跡を辿れば、開発中の新作の姿が少しは見えてくるかと思います。

稀に、私の作品に共通する、私の世界観なども書いていく予定ですので、
意外と重要なページになあるかもしれませんね。

まぁ気楽に、暇つぶし程度に、読んでいってくださいな。
...タイトル名称の読み方は「にちにち これ きにち」です。あんまり語感は良くないねぇ。

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タイトル「春一番と金属塊」
<記述日:2025年03月29日>

本ページをご覧の皆さま、こんにちは。座長の田Koです。
私の地元でも、冬の姿は影も無く、春の陽気が満ちる日が続いております。
ニュースなどに聞くところによりますと、東京などでは既に30℃を超える日があったとか。
桜の早咲きが話題になる時期というのも、これからどんどん早まるのでしょうか。無理もありませんね。
(30℃は夏だよなぁ)

さて、春と夏の境界が曖昧になっている昨今ですが、一丁前に「春一番」なるものは吹くようです。
何を言いたいかと申しますと、今週の水曜日、3/26は、強風の影響で東北新幹線が大変なことになっておりました。
今回の週報はそれについて述べていこうと思います。何を隠そう私も、新幹線に数時間閉じ込められた体験者なので。
乗車(うごいてない)中に書き記した現地メモを参考に、軽く執筆しようと思います。

その日私は、とある野暮用で、朝8時半頃発の新幹線に乗って、青森から仙台へ向かっておりました。
私は余り新幹線が得意ではないのですが、青森から仙台まで約2時間で行けるというのはやはり魅力で、利便性の前には、個人の好みなど、淘汰される問題なのでしょう。
何事もなく、八戸、盛岡、といった駅を通過し「次は、仙台に止まります」という子気味良いアナウンスは、午前10時頃のことです。
しかし、それから10分、午前10時10分、電車がスーっと、停止しました。アナウンスによると、福島駅付近の線路にビニールが飛んできたとのこと。
「おいおい、」と思いつつも、数十分程度の遅れは付きものだろうとして、その時はまだ楽観視しており、しかも丁度、盛岡で隣に乗ってきた少年が、
話しかけてきてくれたので、そこからは彼とゲームなどをして時間を潰すことに。
20分ほどして、電車がゆっくり動き始め、「かなり遅れたなぁ、」と思いつつ、ひとまずの安心をしていたのもつかの間、
新幹線は、停車予定の無い「一ノ関駅」で止まってしまいました。車内アナウンスはいつの間にか「ビニール撤去の為...」から「強風の影響で...」に変化し、
乗客が徐々にざわつき始めたのもこの時です。

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よもや自分が「復旧の見通しは立っておりません」に乗ることになるとは。
なかなか、レアな経験をしたものだ。と思い、まだまだ余裕のある私は、隣の少年とかなり仲良くなり、色々話をするように。
どうやら、ゲームを作ることを夢にしているようで、何という奇縁なのだろう、と驚きました。それとも、最近の子供にはメジャーだったりするのだろうか。
(少年の母曰く、その子以外に聞いたことはないので、まだ「メジャー」というわけではなさそうです)

しかし気が付くと、停車してから、既に2時間が経過し、時間は12時半になっていました。私の用事が午後1時からだったので、「やっぱり間に合いませんねー」と
連絡したのもこの時。流石にお腹がすいたので、車内販売を探すことに。しかしそこで初めて、その「状況」の異常性を知ることになりました。
車内販売に、行列ができているのです。予想はしていましたが、それにしても大変で、結局、販売にあり着くまでに約2,30分並ぶことになってしまいました。
しかも、買えたのは、缶コーヒー1本のみ。勘弁してほしい。

コーヒー獲得の約30分後、新幹線のドアがやっと解放されました。乗客からすると、なぜその判断に時間がかかったのか疑問でしたが、
後々考えてみると、成程、電車における計画外のドア開放は、事実上の降参を意味するのだろう。現実問題、流出した人間の全員が、再出発時に戻ってくるとは限らない。
外の空気を吸いに行くことが先決の乗客は、我先にと外へ出て、四散しました。切迫した人間の自由意志の前に、計画、予定というものがあまりにも貧弱なのだということを目の当たりにしました。
駅全体が臨時の体制を敷き、すぐさま返金、無賃送還等の対応に追われ、しかしその中で、新幹線ダイア復旧の為の準備も並行する。
そこへ、様々な「部外者(元・乗客)」の介入を受ける。いつもの何倍も仕事をしているはずなのに、それらは空虚に、その場で消化されてしまう。「現場としての停滞」。
この「多動する停滞空間」の異常性は、現地で見た最も印象的な光景です。

そこから先私は、何時間も一ノ関駅にいることになり、後日普通に体調を崩すのですが、それはただの自分語りなので省きます。
今回の出来事で私が強く感じたのは、n番煎じ的な表現ですが「近代社会の『ある意味での』脆さ」です。
私の言う近代社会とは「計画・効率化社会」であり、何事も小型化することを善とする社会のことです。
小型化の行きつく先は「データ化」で、有質量から無質量へと変貌を遂げます。なぜそうするかと言えば、ひとえに「効率化に有利だから」でしょう。
人の生活、社会の基盤に至るまで、効率とは利便性の母であり、個人の嗜好は往々にして淘汰されます。
しかし、ひとたびそれに大きな乱れが生じようとした場合、従来のアナログ社会よりも、ストレスフルな遅れを生じ得る。これが、近代社会の脆さで、
人間、その他生命に対して社会が冷酷化している証明でもあります。


私もPCを使ってこの文章を作成し、インターネットを使用して公開している身で、この社会の恩恵をこれでもかと受けているのですが、
やはり、書き換えられない計画書は胃を痛くすると思います。納期なんて大っ嫌いだ。
今回はこんな感じで終了です。なかなか、ゲームのネタにはできそうな経験だったので、良しとするか。
現代社会のことも色々考えられたしね。

ドアが開く音は、今も昔も、何らかの哀愁を纏っている。田Ko
<次回更新予定日:2025年04月05日>