ここは、座長「田Ko」(以後:私)のブログのようなページです。
過去作や、現在開発中の作品の四方山話を書きます。時々、お絵描きなんかも載せたりします。
また、私はここに、日記のような感覚で、その週の徒然たる話を書いていきます(こっちがメインかも)。
その足跡を辿れば、開発中の新作の姿が少しは見えてくるかと思います。
稀に、私の作品に共通する、私の世界観なども書いていく予定ですので、
意外と重要なページになあるかもしれませんね。
まぁ気楽に、暇つぶし程度に、読んでいってくださいな。
...タイトル名称の読み方は「にちにち これ きにち」です。あんまり語感は良くないねぇ。
タイトル「浮世は舞台上に舞う」
<記述日:2025年02月12日>
本ページをご覧の皆様、こんにちは。座長の田Koです。
本サークルの本拠地は未だかなり寒く、先週末には雪も降り、なかなか外に出れない(出たくない)日が続いております。
さて、「鱆壷座について」のページで知っている方もいるかもしれませんが、私の人間としての肩書は学生で、
丁度今週は、今年度最後の期末試験がありました。試験勉強もありましたので、先週の活動は比較的、非活発的でした。
この文章はそんな試験勉強の合間を縫って認めているものです。
今回の文章から、本格的に「日々是畸日」を書いていくことになりますね。
初回の文章は、ネタ出しが簡単で、パパっと力作が書けるような心持でしたが、今回からは、そうもいきませんねぇ...
先週何があったかな。うーむ、「試験」.....
だとさすがにつまらない気がするので、私の嗜好の話でも。2回目ですが、結構読解難度は高いと思います。
本サークルの名称は「鱆壷座」です。なぜこの名称にしたかと言えば、私が「見世物小屋」好きだからですね。
「○○座」という名称は、見世物小屋は勿論、他にも、サーカスやオペラなど、何かしらの芸を見せる団体の名称としてメジャーです。
上にあげた3つの例ですが、よくよく考えると「自らを見せ物にする」という活動方法で共通しています。
人を笑わせる、泣かせる、怖がらせる、楽しませる...ここでいう「人」とは観客を指します。
つまり、「○○座」という名称の「座」が、極めて「観客席」に近い意味を持つというのは察していただけますでしょうか。
さて、ではなぜ、全て客への見せ物であるはずの「○○座」のカテゴリで、見世物小屋だけが、「みせもの」の名を冠しているのでしょうか。
この答えとして、明確なものは存在しないでしょう。ただ単に、「見世物小屋」という名称をつけただけかもしれません。
しかしこれに関して、私が思う、私がそう思いたいことは、「見世物」と「見せ物」の相違です。
「見せ物」は、どう書き下そうと、「見せるもの」にしかなりません。
しかし、「見世物」という奇跡的な名称は、上記のほかに、以下のようにも書き下せます。
「世を見せるもの」
見世物小屋の俳優たちは、知っての通り、身体的特徴のある、今だと「障がいのある」方々です。
見世物小屋は、彼らを敢えて見せているのです。見世物とは、極限まで装飾された「現実」そのものです。
現実から乖離しているようで、何よりも現実を見せつけられる、そこに「幻想」の介入余地はありません。これこそが「見世物」の正体です。
そして、「現実」は「世」と読み替えても差し支えないでしょう。
このことを聞いたうえで、「見世物小屋」の名称の謎に立ち返ってみましょう。すると、その謎に解決の糸口が現れます。
つまり、見世物とは、無上のリアリティショーであり、それは「ステージ上に『世』が舞っている」のと同義だと思います。
観客は見世物小屋で「世」を見ることができる、だからこそ、見世物小屋は「見せ物小屋」ではない。といえるのです。
近年になって、我々は余りにも「現実」から遠ざかりました。人間は「どうにかする力」を得てしまったのです。
現実は、これでもかというほどに「どうにもならない」ことです。
しかし今人間は、夜の闇をライトで照らし、遥か故郷と電波でつながります。
そこにあったはずの現実が、技術と欲望で淘汰されたのです。少なくとも私は、現実が視たくて仕方がありませんでした。
その欲求を、極めて優美に満足してくれたのが「見世物小屋」なのです。「現実」を突き付けられている方々が、
この上ない勇気をもって、自らを見世物とし、我々から欠損してしまったそれを、分け与えるように補完してくれるのです。
そのことの、何と有意義な事でしょうか。想像するだに恍惚としてしまいます。
以上で2回目の文章を閉じさせていただきます。どうです?一気に物好き度が増したでしょう。
<次回更新予定日:2025年02月22日>